パリで暮らしていると、小さなことがきっかけになって、ずっと通いたくなるような場所を見つけることがあります。このコラムでは、そうやってめぐりあったお店やアトリエ、そして、そこで毎日こつこつとモノをつくる職人たちをご紹介します。
連載第二回は、 とびきりおいしいパン屋さんを営んでいるクリストフさん・ヴァネッサさんご夫婦にお話を聞きに行きました。

2. ヴァネッサ・エ・クリストフ・コエ 2012.08.15

   
パン職人は、きっと、フランス人にとって一番身近な職人さんです。毎度の食事に欠かせないのがパン。彼らは、日本人がお米を炊くのに近い感覚で毎日パン屋さんにバゲットを買いに行きます。引っ越しをすると決まってするのは、近隣のパン屋さんまわり。そうやって、バゲットやクロワッサンが美味しいお気に入りのパン屋を見つけるのです。端から端まで2時間足らずで歩けてしまう小さなパリですが、この街にあるパン屋さんの数は1200店ほど。平均すると約80uごとに1軒パン屋さんがあるので、歩けばパン屋さんに当たるという感覚です。昔よりは消費量が減ったといいますが、今でも、フランス人ひとりにつき、毎日バゲット半分は食べているという計算になるというのだから、なかなかのもの。

また、フランスの商店の例にもれず、パン屋さんも夏になると1ヶ月の間店じまいをしてバカンスに出かけるのですが、その間に近所の住民たちがちゃんとパンを買うことができるよう、近隣のパン屋さんは交替で休みをとることになっています。7月に休みになるか、8月になるかは、毎年のように変わるのだそう。これは、実に1790年の昔から定められている県条例で、守らないと罰金を払わないといけないというのだから驚きです。
   
   
今回紹介するのは、パリの南にあるこだわりパン屋さん「Vanessa et Christophe Coët」(ヴァネッサ・エ・クリストフ・コエ)。このお店で、まず目をひくのは黒地に金色の文字が刻まれたレトロな看板と、薄いグリーンのファサード。これは、初めは無色の木材だったところに、クリストフさんと奥さんのヴァネッサさんが一緒にペンキで塗ったそう。そして、圧巻なのは店内の壁と天井をおおう、世にも美しいカラフルなタイル。聞いてみると、1920年代当時のものをそのまま今に伝える自慢の内装で、記念建造物として指定されているとか。これを見るだけでも行く価値があるくらい、とびきり素敵な空間です。

もちろん、飾りだけではなく、ここのパン屋さんはパンやデザートも上等。このお店で一番売れているという自慢のバゲット・トラディションは、外側はしっかり黄金色に焼き上がり、中は、ただ柔らかいだけでなくモチモチしていて、かみしめる度に味わいが増すよう。漂う香りもどこかナッツのように香ばしく、思わず頬がゆるみます。美味しさの秘密のひとつは、ゆっくり時間をかけてつくっていること。例えば、パン生地をこねたら、それを一晩じっくり寝かせてから、翌日の朝に焼くようにしているそう。粉の質にもこだわりがあり、パリ近郊にある信頼のおける製粉所のものだけを使用しています。
   
   
この名物のバゲット・トラディション以外にも、シリアルやゴマ、クルミやドライ・イチジク入り、ライ麦の粉、ビオの粉、全粒粉入りパン、天然酵母のものなど、決して大きくない1軒のパン屋さんに、よくもまあ、というくらいに多くの種類のパンが並んでいます。それに加えて、クロワッサンやパン・オ・レザン(カスタードクリーム入りのブリオッシュ生地にレーズンを散らしたもの)、パン・オ・ショコラなどといった、フランス定番のヴィエノワズリーも充実。その中でも特におすすめしたいのは、クリストフさんが考案したという、ライ麦の粉が入ったブリオッシュ。朝食に、サクサクした歯触りでありながら、どっしりした重みのあるこのパンをいただくと、今日も良い1日になりそうな予感がしてきます。パリにこれだけパン屋さんがあると言えども、このパンはここにしかありません。

新鮮なフルーツが贅沢に盛られたタルトや、どこまでも軽いクリームが入ったシュー系のデザート、自家製チョコレートもあり、ショーケースはいつもにぎやか。子供のときからデザートをつくるのが好きだったというクリストフさん。豚肉加工品をつくる職人だったお父さんの工房で、見よう見まねでお菓子作りを始め、好きなことを続けた結果、パン・菓子職人になったのだと言います。

   
   
今の店へ移って来たのは9年前。アパルトマン探しと一緒で、たまたま空いていた物件に落ち着いたということですが、今ではすっかりこの地に馴染んでいます。メトロの駅から少し離れた立地なので、訪れるのは近所に住む常連さんが中心。観光客も多く訪れるパリ6区のレンヌ通りで働いていたことがあるクリストフさんですが、その時と今とではお客さんの様子が全然違うとか。「前の店では、お客さんはショッピングのためにその地区にやってきて、帰りにパンを買ってそれでおしまい、ということが多かったけど、ここに移って来てからは、うちのパンを買いに来るお客さんは毎日同じ顔ぶれ。顔なじみになったお客さんから夕食に誘われることもよくあるんですよ」と、嬉しそう。これからの目標は? との質問には「いつも、今よりもより良い物を、と思っています。単純な話で、ここのパンを食べて美味しかったら、お客さんは、翌日にまた同じものを買いに戻ってきてくれる。僕自身が売り場に立つこともあるので、お客さんが好きなものを聞いて、そこから新しいパンが生まれることもあります」と答えてくれました。
こんな、近所の人に愛される小さなパン屋さんには、社交場としての役割も。店先で立ち話をしていく人もいれば、入り口すぐのところの壁一面にセロハンテープで貼ってある「ベビーシッターします」「駐車場貸します」「アパート貸します」「ピアノのレッスン承ります」などといったメモに丁寧に目を通す人も。ちなみに、クリストフさんとヴァネッサさんが出会ったのもこのお店!ナチュラルな笑顔がなんとも魅力的なヴァネッサさんは、4年前に売り子としてこのお店にやってきたのだそうです。
   
   
ふたりのお住まいは、お店の2階。クリストフさんは朝3時から地下の工房でパンを焼き、ヴァネッサさんは毎朝7時にお店をオープンします。朝起きて身支度をしたら、ゆっくり朝食を食べる間もなく開店前のお掃除。焼きたて、ホカホカのクロワッサンやバゲット目当てに、開店前からお客さんがやってきて店先で待ち構えていることもあるので、開店時間は厳守です。早起きのお年寄りだけでなく、仕事前のサラリーマンも朝からやってくるそう。

毎朝の早起きはもちろん、常に変わらない笑顔での接客の裏には見えない苦労もありますが、ヴァネッサさんは「毎日人々を幸せにできる」この仕事に強いやりがいを感じているそう。そんなヴァネッサさんの言葉にうなずきながら、クリストフさんはにこにこ笑いながら、おどけるように付け加えました。「お客さんはお金を払ってくれて、しかも喜んでくれるんだから、言うことなし!」私も、毎日の幸せを届けてくれる、こんなパン屋さんのファンのひとりです。Merci !

■Vanessa et Christophe Coët(ヴァネッサ・エ・クリストフ・コエ)
104, rue Bobillot 75013 Paris
Tel : 01 45 80 12 960
火〜土7時〜20時(2012年は8月休暇)
(「暮らしの豊かさとは?」との問いに、「例えば、週末にふらりと旅に出たりする時間を持つこと」と言うふたり。今年の夏は、自然の美しいアルデッシュ地方でバカンスを楽しむそうです。)
メトロ Maison Blanche, Tolbiac
   
アトランさやか
1976年千葉県生まれ。青山学院大学フランス文学科卒業後、編集プロダクション勤務を経て、2001年からパリに暮らす。パリ第4(ソルボンヌ)大学にてミリアム・ロマン教授に教示を受け、論文『バルザックにおける食』を書き修士号を取得。以来、フランス文学と食は一生のテーマに。学業修了後は、食についての話題を中心に、フランスのライフスタイルについて雑誌「天然生活」やパリの日仏新聞「OVNI」などにて執筆。著書に「薔薇をめぐるパリの旅」(毎日新聞社)がある。
ブログ アトランさやかのパリ散歩
 
 
戻る